岩木山と共に過ごした年月はわずか18年
私は毎日岩木山を眺めながら小学校、中学校、高校へと通った。春になるとリンゴ畑で咲き誇る白いリンゴの花の下を通って行った。甘い香りがした。小学校や中学校へ向かう時にはいつも岩木山に背中を見つめられていた。下校時には学校の玄関を出ると必ず岩木山を探した。みな誰でもが無意識にそうしていたに違いない。

60年過ぎた今も同じ姿で建っている小学校。今は郷土資料館として利用されている。どこも同じで少子化のために生徒がいなくなってしまったからだ。帰省すると必ずここを訪ね、遠い過去の記憶に浸る。両親の愛情に包まれながら育った幸福だった時間がよみがえる。私はここでホモ・サピエンスとして成長した。自己を発見し、考えることを始めたのだ。だから、私の人間としての原点がここにある。
両親に捧げるおおいなる賛歌

路傍の石のように、誰かの目に留まる訳でもなく、小さな田舎町の町村史にもその功績が載るということもなく、今はもう故郷の土に帰ってしまった両親を誰が褒めたたえてくれるだろうか?私はこの両親が存在したが故に今の命がある。両親に賛辞を送れるのは私だけなのだ。二人の臨終にさえ立ち会わなかった私は、罪滅ぼしとも言える両親への賛歌を、今こそ贈ろう!
この写真は父が満州から引き揚げた後の30歳頃のものだ。結婚式の前に撮ったものだと思える。28歳で出征先の満州から帰ってきたようである。その後母を見染て結婚することになった。かなり強引に事を運ばせたような話は後に母から聞いた。
父は文学青年であったように思う。達筆な人でいつもメモを取っていた。本当は文章の書ける人だったのだろうが、職業は技術畑を選んだ。父は津軽平野の小さな村に農家の長男として生まれた。少年時代はたいへんな暴れん坊だったようである。どんな暴れ方をしたのかは知らない。村でも評判だったのだと親戚から聞いたことがある。父は初めから農家を継ぐ気はなかったのだろう。戦争が終わり結婚をすると電気工事士の資格を取得して生計を立てるようになった。
父は奇妙な人だった。体裁というものを全く気にしない人だった。旅先で母の鍔(つば)の広い麦わら帽子を平気で被って歩く人だった。私は父の作る料理が好きだった。片栗粉を温め砂糖をまぶして甘いおやつを作ってくれた。イカの塩辛は特に絶品だった。政治談議が好きで、私が高校生になってからはいつも衝突するようになった。頑固で他人の意見を聞かない人だった。
私はこの父の血を受け継いだのだ。私が中学生になり部活動で遅くなると時々学校まで迎えに来た。恥ずかしくてたまらなかった。成長して家を出て上京してからはわざわざ様子を見に来ていたらしい。ずっと後になって分かったことだった。
母は陸奥湾の大きな漁港の漁師の娘として生まれた。母の実家は大きな屋敷で訪ねる度にその奥深い暗がりに恐怖を感じたものだった。ただし幸運なことに屋敷の裏は入り江になっており、私はいつもその入り江で時が経つのも忘れて波と戯れていた。岩ガキの美味しさを知ったのはその幼少の頃だ。何と贅沢なことだったろう。
母はたびたび実家を訪ね、私はいつも母にくっついて一緒に出掛けた。今思うと夫婦仲がうまくいっていなかったからだったのだ。母は18歳で小さな医院で働き始め、19歳で看護婦の資格を取った。当時は「看護婦」と呼んでいた。努力家で我慢強く、熱血漢でもあった。これからという時に父と出会い、結婚してしまったのだ。父よりもこの母の方が先進的な考え方の持ち主だった。
両親の夢ってどのようなものだったのだろう・・
両親が生まれて、そこで育ち、そしてその一生を終えた土地は奥羽山脈の北端にある。日本一長いこの山脈は栃木県から青森県の陸奥湾まで続いている。その長い長い山脈がようやく消える辺りで二人は一生を過ごした。
父は第一次世界大戦が勃発した年に生まれ、第二次世界大戦時には満州へ出征した。母は関東大震災の翌年に生まれ、父よりは9歳若かった。父は満州時代のことを殆ど話さなかったが、酔うといつも出征中の歌を歌った。後に従軍中の仲間が訪ねてきた時もあったように記憶している。二人は日本が戦争へと舵を切り、惨めな敗戦国となった時代に生まれ、少年少女時代、そして青年期を過ごしたのだ。

そして敗戦の直後に二人は結婚し、村のはずれに小さな家を持った。家族を持ち幸せな家庭を築くことが最大の夢になったのかも知れない。畑や田んぼを分けてもらい自給自足の生活が始まった。
私達家族の最初の家はとても小さくてかわいらしいものだった。私は今でもこの家の事が忘れられない。私は生まれてからわずか4~5年しか暮らさなかった家だった。私の上には既に二人の姉がいた。その小さな家はまるでおとぎ話に出てくるような家だった。
もちろん、こんなにかわいらしい家ではなかったが、敷地の中にはたくさんの動物がいた。敷地に入るとブランコが入り口の両脇にある木に吊るされていた。家の後ろは川になっていていつもアヒルが泳いでいた。これは誰の発想だったのか・・たぶん母のアイデアだったのだろう。戦後の食糧難を乗り切る為もあったろう。農作業に慣れていない母にはとてもきつい仕事だっただろう。案の定、最初の子供は双子だったが、一人は生まれてすぐに亡くなった。そして私は未熟児で生まれ死んでも仕方がないと思われたが、運良く今も生き延びている。
私は小さい頃、隣の家にも一人では行けない子だった。いつも母に連れて行ってもらっていた。私はこのワンピースが大好きだった。真っ赤なチューリップのアップリケがしてあった。田舎の村では珍しがられた。母は何でも器用にこなす人だった。才能に溢れた人だったのだ。看護師の資格もあったので頼られていたに違いない。そんな母は父を叱咤激励し、父は開業するために隣の町へと進出した。
隣町には駅があった。当時はとても賑やかな町だった。初めは貸家に住んだが、やがて一軒家を購入した。私が最初に暮らした村の小さな家の3倍の広さはあった。最初の家もそうだったが、今度の家もすぐ近くに墓地があった。父の考えそうなことだ。墓地の近くは地価が安かったのだろう。父の事業は少しずつ拡大していき、従業員を雇えるようになったが、人付き合いの苦手な父はいつも従業員との間でトラブルを起こした。その尻ぬぐいはいつも母だった。
両親は3人の娘を養うために全ての労力を注ぎ込む

二人はどんな夢を見ていたのだろうか・・。輝かしい未来を描いていただろうか?つつましくとも穏やかな毎日で良いと思っていたのだろうか?
高度経済成長に向かい、父の仕事も順調だったが、彼は金儲けが苦手な人だった。そんな父を見て、母は自ら電化製品のセールスマンになった。子供たちの教育費を賄うためだったのだろう。小さな店は父の事務所と母の店舗になった。やがて母は腕利きのセールスマンになった。この頃は家庭用の電化製品が飛ぶように売れる時代だった.
両親は家を増築し、住まいを広げた。3人の娘が成長したからだ。長女を田舎では珍しい裕福な家庭の少女が入学するような私立の女子高へ通わせ、次女は優秀な進学校へ行き、自由気ままな3番目の私は公立の女子高へ進んだ。この頃両親は最もよく働いたのだ。
この頃が両親にとっては最も幸せな時代だったのではないだろうか。二人とも大きくなった家を大切にした。母は表彰されるほどのセールスウーマンになっており、ようやく自分の居場所を見つけた。私が小さかった頃の母の写真はいつも笑顔のない顔だったが、この頃になると笑顔の写真が多くなった。生活苦と子育てに追われたつらい時期が過ぎたのだ。
父は内向的であり、母は社交的な人だった。そのために夫婦げんかも多くなった。父はこれといった趣味もなく酒好きな人だった。ある日酔っ払った勢いでバイクごと川に落ちたことがあった。破天荒で何をしでかすか分からない所があった。
やがて長女が結婚して初めての孫が生まれた。孫はどんどん増えていき、最後には9人になった。にぎやかな小さな孫たちに囲まれた時、両親はとてもうれしそうだった。
相変わらず夫婦喧嘩は繰り返されたが、母は出不精の父を車に乗せて温泉へと出かけた。有名な酸ヶ湯温泉や十和田湖やあちらこちらの観光地に家族を連れて行ってくれた。山菜取りが大好きで竹の子取りには私も一緒に出掛けた。山菜料理には父も多いに喜んだ。
両親の終の棲家
両親は3つ目の家を手に入れた。二人の最後の夢だったのだろう。広い庭のある大きな家だった。私はこの3つ目の家での両親のことはあまり知らない。私が上京してからの事だったからだ。母と父はこの庭に梅の木を植え、ぶどう棚を作り、見事な藤棚も作った。

北国の春まだ浅い4月に父は早逝した。68歳だった。糖尿病を患っていた父は発症の時から母にインスリンの注射をしてもらっていた。毎日だ。父はお酒を断つことができなかったのだ。入院中の父の両足は壊死し始めていた。母は父の葬儀を盛大に行った。父が他界した時、母はまだ59歳だった。母は父の死後も精力的に働き、そして精力的に遊んだ。
母は父の死後も24年長く生きた。
老いた母に衝撃を受けたのは80歳になろうとする頃の事だった。姪の結婚式で帰郷した私は母が結婚式への出席を固辞していたことを知った。庭にいる母を見て衝撃を受けた。出始めたばかりの草の芽を一生懸命必死で摘み取っていた。辺りを見回すと伸びている雑草など一本もな見当たらないほどきれいな庭だった。母が摘み取っていた雑草は2㎝にも満たないほど小さな草ばかりだった。
「めぐせっきゃ!」
どうして結婚式へ行かないのか、と尋ねると「年取っちゃって、めぐせっきゃ!」と言った。「めぐせ」とは「恥ずかしい」という意味の津軽弁だ。老齢になったしまった自分の姿を人前にさらすのは恥ずかしい、という意味だった。私はこの言葉に大きな衝撃を受けた。決してそんなことはない、と何度説得しても彼女の意志は変わらなかった。この時、母は一度も顔を上げず、私を見ようともしなかった。母は私が誰かも分かっていないのだと、ずっと後になって気づいた。
両親の最後の時に傍にいなかった悲しさ
私は父が亡くなった年齢を超えようとしている。私はこの父に良く似ている。破天荒で、無鉄砲で、向こう見ずで尚且つ我がままである。少しも良い所がない。あまりにも似ているので、父の良さがどういうものか判断がつかない。変った人だった。常人ではなかったという事だろう。
母が亡くなった時には初めて「三年の喪に服す」という言葉を体感した。喪失感が長く続いた。
家を出た者の宿命だろうか、と両親の死に目に会えなかったことへの言い訳にした。二人の男の子を抱え、生活苦に喘いでいた私には休暇を最小限に止めなければならなかった。
人というものは、若い時には両親の存在さえ忘れることがある。しかし、自分が年老いていくにつれ、幼かった頃のように再び身近になってくる。自分が死ぬまでこの感謝の気持ちはもう消えることはない。