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第10章 染色体を見ても性別が決められない?
―10億人に一人の「男性」が教えてくれた性差の不思議―
《「XYは男性で、XXは女性」は時代遅れ?》
性同一性に影響をもたらす要因は、まさに虹のように様々である。今日では、生殖器官が発生する際に、身体が通常とは異なる経路を辿った子供や大人を指すときに、性分化疾患(DSD)という言葉を使う。
どの経路をたどるかによっては、身体の外にある性器の形がとても曖昧になることがある。たとえばクリトリスが異常に拡張していてペニスのように見える女性器や、陰唇のひだが融合しているために陰嚢のように見える女性器などがある。
医師にとっては常に変わりゆく社会心理学面での多様な性別の観念に追いつくだけでも大変な仕事だ。
さてここで、赤ちゃんが生まれ、DSDを抱えていることが疑われた時、実際何が行われるか案内しよう。
僕らはまず、赤ちゃんの両親から聞き出せる限りの情報を聞き取る。現在過去の家族歴、生存している親類の健康、反復流産や重度の学習障害、近親同士での結婚、等々。
その後僕らは巻き尺を使って、赤ちゃんの身体検査を行う。頭囲、両目の距離、瞳孔の距離、人中の長さなどを測る。肛門が正しい場所にあるか、赤ちゃんの両の乳首の距離なども。最も重要なのは、DSDの判定の際に、赤ちゃんの身体が全体的に見て、異形であるかどうかを見極めることだ。
ごく小さな特徴が、全く新しい診断を導くこともある。ごくごく小さなものが、世界に対する僕らの見方を完全に変えてしまうこともあるのだ。
《遺伝学の教科書に反する赤ちゃん、イーサンを前にして》
彼はどこから見ても愛らしかった。しかし、実のところ、それまでこの世に生まれたすべての赤ちゃんとも違う子だったのだ。
指摘しておかなければならないのは、イーサンの胎児超音波診断検査の結果はすべて正常だった。生まれた時、潜在的な懸念材料ではあるけれど、さほど珍しくはない特徴があった。殆どの男児では、尿道口(おしっこを出すところ)は、ペニスの亀頭の中央部近くにある。けれどもイーサンには尿道下裂があった。つまり彼の尿道口は通常の位置にではなく、もっと陰嚢の近くにあったのだ。
およそ135人に一人の割合で、男児は何らかの尿道下裂を抱えて生まれてくる。その程度は様々だが、たいていは修復可能だ。尿の流れが妨げられない限り、尿道下裂の修復手術は急を要するとはみなされない。数か月後に手術のアドバイスを受け、イーサンは退院した。
その後、イーサンは身長と体重が標準体型にならずに、両親は不安になった。そして発育状況を調べる所定の診察が始まったが、それはやがて膨大な数のピースを持つパズルに変貌することになったのである。
イーサンの小柄な身長と一見何も問題がない身体的特徴を踏まえて、核型解析と呼ばれる遺伝子検査が行われた。この検査では、細胞を何個か取り出し、ペトリ皿に入れて培養してから、染色体がくっきり見えるようにするために特殊な染料で処理する。
そうして初めて、イーサンがこれまでの少年や男性とは少し違う、という事が分かり始めた。ほかの少年や男性はみな、父親からY染色体を受け継ぐ。
稀ではあるが、遺伝的に女の子である人が男の子として発達することはゼロではない。それは、SRY(「性決定領域Y」を意味する頭文字)と呼ばれる領域を含む、Y染色体のごく小さな一部が受け継がれた結果だ。これが起きると、その人の発達の全ての経路が、女性ではなく男性のものにシフトしてしまう。
このSRYという小さなかけらを探すために、イーサンの症例で僕らが使った次の手段は、FISH法(蛍光インサイチュー・ハイブリダイゼーションの略で「フィッシュ」と呼ばれる)と呼ばれる検査だった。FISH法では、検査対象のDNAに相補的な染色体の部分だけに結合する分子プローブを使う。
僕らがイーサンについて予測していたのは、類似の症例と同じように、FISH法を使ってSRY領域を調べた結果が陽性になることだ。しかし、そうはならなかった。
イーサンはY染色体を父親から受け継いでいなかっただけでなく、そのごくごく小さなかけらさえ受け取っていなかったのだ。
この結果により、何故イーサンが男の子になれたのかについては、これまでに判明している遺伝学的根拠ではほとんど説明できないことになった。
《シャーロック・ホームズさながらの大規模「捜査」》
イーサンの症例についてまず考えられた可能性の一つは、先天性副腎過形成(CAH)だった。一握りの遺伝子によって生じるこの一連の遺伝病は、女性の外見を男性のように見せる。CAHを持つ人々は生まれつき、コルチゾールと呼ばれるステロイド・ホルモンが十分に作れない。身体がこの欠乏に気づくと、副腎を刺激して、ステロイド・ホルモンを増産させようとする。しかし問題は、作られるのがステロイド・ホルモンだけではないことだ。さらに多くの種類のホルモンも増産されてしまうのである。
イーサンの症例について、僕らはデイスカッションで検討した後、CAHの可能性をすぐに却下した。CAHをもたらす遺伝子の突然変異は、少女に男性化をもたらす。その程度はかなりのもので、出生時に男児とみなされるほどだ。けれどもこの突然変異にもできないことが一つある。精巣を作ることだ。しかし、目視と睾丸の超音波検査を行った結果、イーサンには正常に形成された睾丸が確かに二つあることが確認されたのだった。
《これまでの「性」の見方は、すべて間違っていた⁉》
長いこと男女の分類に関する定説は、「染色体については始めから男か女かに分かれているが、発生については同じ状態から出発する」というものだった。けれども、イーサンのシナリオはそうではなかった。そこで僕らは、従来の遺伝子に関する知恵が実際には誤っているのではないかと疑い始めたのだった。
近年ゲノムを調べる解像度は飛躍的に高まった。今では「マイクロアレイによる比較ゲノム・ハイブリダイゼーション(aCGH)」と呼ばれる、さらに詳しいタイプの検査法を使うことができる。これは一言でいうと、個人のDNAの「フォルダを解凍」して、既に判明しているDNAの検体と混ぜ合わせるものだ。両方のDNAを比べることにより、欠けていたり重複していたりする短区間のDNAを見つけることができる。これが明らかにするものは、核型検査と同じだが、それより格段に詳しいレベルで情報を得ることができる。
とは言え、ゲノムの各文字に至る更に詳しい情報、すなわち染色体だけでなく、60億個のヌクレオチド(アデニン、チミン、シトシン、グアニン)の配列にある、稀な変異を見つけたい場合は、DNAの塩基配列決定が必要になる。
イーサンについて言えば、ぼくらは全く予測していなかったことを一つ発見することになった。X染色体上でSOX3(ソックス・スリー)という遺伝子が重複していたのだ。女の子に育つ赤ちゃんにはX染色体が二つある。従ってSOX3遺伝子も二つあると考えられる。実際そうなのだが、通常片方のX染色体はXIST(イグジスト)と呼ばれる遺伝子が作り出す産物のおかげで、全ての細胞内でランダムにオフ(不活性状態)になっている。
興味深いことに、イーサンはSOX3遺伝子を重複して持っていたために、不活性化(サイレンシング)されていない方の染色体から、SOX3遺伝子が発現する追加のチャンスを手にすることになったのだった。
実際、SOX3遺伝子の余分なコピーがあることは、イーサンにとって重要な意味を持っていることが判明した。この遺伝子のヌクレオチド配列は、約90%がSRY領域のものと同じなのだ。SRY領域はY染色体の小さな一部で、男性になる道のりにおいて欠かせない道しるべである。この類似性はあまりに際立っているため、SOX3はSRYの遺伝的祖先である可能性が高い。両者の主な違いは、SRYはY染色体にしか存在しないが、SOX3は男女共通のX染色体にあることだ。
シャーロック・ホームズなら「面白くなってきたな」と言うところだろう。
《すべての変異を排除するのは、果たして正しいのか》
僕らの遺伝子がとてつもなく敏感であることは、ますます明らかになってきている。食生活が変った時、歩の光を浴びた時、さらにはいじめられた時まで、日々の暮らしの出来事は常に遺伝子に影響を伝えている。そして遺伝子の発現や抑制について言えば、それを引き起こすきっかけは、ほんのわずかなものでいい。
超音波検査は発育中の胎児の性別という基本的な画像をもたらすようになり、その情報がますます多くの人の手に届くようになったために、中国では男の子が欲しい親は100万人単位で女の子を抹殺したのだ。
僕らが今生きている世界では、性別は、選択したり、排除したりできる数多くの事の、ほんの一つでしかない。遺伝子検査を使えば、妊娠前または妊娠中にできることは、もっとずっとある。
これから見ていくように、さらに高度な遺伝的完璧さを追い求めることにより、僕らは社会的な基準に適合しない何百万もの人命よりももっと多くの物事を排除しているのかもしれない。必死の努力を傾けて解明しようとしている医学的問題の解決策そのものを、排除しつつあるのかもしれないのだ。
【この章で取り上げなかった他の項目】
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