『愚渓』(ぐけい)と名付けたのは柳宗元

冉渓(ぜんけい)あるいは染渓(せんけい)と呼ばれていた渓谷
もともとは冉氏(ぜんという人の)の土地であったために「冉渓」と呼ばれ、あるいは染め物が洗えるほど清い水であったために「染渓」と呼ばれていた渓谷だった。
追放された柳宗元はその5年後に軟禁状態からも解かれ、この渓谷に家を建てる。そしてあらゆるものに「愚」のなまえを付ける。愚丘、愚泉、愚池・・というふうに。
そしてこの地で生まれた彼の『永州八記』は現代にまで残る文学作品になった。『永州八記』は後々紹介するとして、まずは「愚渓」の景色をご紹介しよう。

上の写真は昔(明・清時代)の地図。の永州城と愚渓の入口が書かれてある。

これは現在の永州地図。愚渓と呼んだ渓谷の形がよく分かる。








柳宗元の時代にはもっと鬱蒼としていた。
残念なことに、私が撮影した時にはちょうど愚渓を整備工事している時期だった。長年にわたって放置されていたために美しい景観を見ることができないような状態だったのだ。埋もれてしまった宝石を掘り返す作業だ。そのために赤い土がむき出しになっている。これは2010年の撮影のもので、もう9年も以前の写真だ。私はその後訪問していない。







柳宗元はこの短い愚渓のあちらこちらで沢山の山水記を書いた。そしてやがて、もう少し遠出をすることにもなる。
この愚渓は今はもっと美しく甦っている筈だ。