フリーランスが似合った『李白』 李白の世界 少年時代の李白 ここまで自由人になれた訳 《グローバルな世界を知っていた李白》 李白の出生や先祖については謎だらけである。最近の定説では中国四川省、昔は蜀と言われた土地で生まれ、すぐに西域のキルギスに渡ったということになっている。ところが、それじゃ少し辻褄が合わない。 キルギスはシルクロードの要所で、李白の一家はキルギスの砕葉(スヤブ=現在のトクマク)という町に住み、父の李客はそこで行商人となり財を成した、ということになっている。 唐の都長安から伸びてきたシルクロードはこのトクマクを過ぎると、ロシアとカザフスタンへと分かれ、北へ向かう道とさらに西のカスピ海方向へ向かう道となる。 李白はトクマクに5歳になる頃までの5年間住んだことは確かなようだ。 トクマク・・そこは多くの民族が行きかう場所だった。たくさんの言語が飛び交い、異文化の交流が盛んで、世界で最も活気ある市場だった。李白は幼少期に「グローバルな市場」を見て育ったことは確かであると思う。その幼少期の記憶や体験が後の李白に大きな影響を与えたに違いない。 《李白の青年時代》 李白は西暦701年に生まれた。その5年後に則天武后が死に「周」だった国名が「唐」に戻った。この政局の変化が、李白一家が巴蜀移住した契機になっているらしい。則天武后は帝位についた時には敵対する多くの中央官僚を殺し、また追放した。李白一族も追放され、追放先からキルギスへ逃亡した、という事になっているが・・。 李白一家は蜀の清廉郷(現在の四川省江油市)で暮らした。李白はここで25歳までの青年時代を過ごす。 裕福な商人の子だった為にお金には無頓着だった。大金をはたいて貧乏人を助けてやったり、酒場の女を助けるために任侠事件も起こした。イケメンだったという記録はないが、身長も高く豪快な性格だった。西域の言葉も理解していたという。 10歳で諸子百家の書を読んだというから相当優秀だった。峨眉山に籠って修行(学問)をしたり、近くの岷山(現在パンダ保護区がある山脈)に書斎を築き道教の師の教えを受けたり、李白は官吏になる希望を持っていた。20歳の頃には蜀の都の成都にも遊学している。 峨眉山 仏教、道教の寺院が数多く建築されている。2016年に世界遺産に登録 李白の血肉となったものは、キルギスで培った「異国」「異民族」「多様性」だったに違いない。そしてそこに広大な岷山山脈の大自然が彼の繊細な感性を育てた。 李白のこころざし 李白の父・李客は商人の戸籍のままだった。玄宗皇帝の安定した時代になっても「復権」を願い出なかった。「客」という名前も「よそ者」という意味で、李白の父は一生その名前で暮らした。この父についての記録は全く残っていない。李白自身も何も語らなかった。この父が本当は漢人ではなく、キルギス生まれの異民族の人であったならば、全ての謎が解けるのではないかと思う。 李白は一度も科挙試験を受けたことがない。もともと商人の子は科挙の受験資格がなかった。農民、商人、女子は初めから官吏になることは出来なかったのだ。そういう人々は知識人からの推薦という道があった。 李白は25歳で故郷を離れるが、以降は20年近くも各地を廻り、43歳で推薦によって玄宗皇帝の近くに「翰林供奉」(かんりんぐぶ)という職を得た頃には、長安にもその名声が届くようになっていた。しかしその初めての官職の座もわずか3年で失う。 彼はフリーランスの詩人に戻ったのだ。李白には「自由」がなければならなかった。その後も波乱の生涯を送ることになるが、最後まで詩を読み続ける。 李白はあらゆるジャンルの詩を詠んだ。そのどれもが心を打つ作品ばかりだ。中でも私が最も好きな詩の一つに「戦城南」(せんじょうなん)というのがある。とても長い詩で激しい口調の反戦歌になっている。その他にも大好きな詩がたくさんあるので、いつか紹介できればと思う。