柳宗元(りゅうそうげん)という人物
この名前は日本人にはあまり馴染みがないかもしれない。高校までの授業ではあまり詳しく教えていないからだ。中国の過去の文豪では李白や杜甫、白居易ほど有名ではない。
そもそもこの写真の顔が実際に柳宗元の顔なのかと言うと、たぶん違うだろう。昔の人の顔は殆ど分かっていない。みんなしもぶくれでぽっちゃり顔になっている。価値観の違いからと骨格自体の変化からだろう。
最近では頭骨から復元している例がある。クレオパトラやツタンカーメン王などは完全に顔が復元されている。
柳宗元は『唐宋八大家』(とうそうはちたいか)の一人
「唐宋八大家」というのは中国の唐の時代から宋の時代までの八人の名文家を言う。新しい文章の形を創った黎明期にあたり、その功績を残した人物として、後の清の時代になって、沈徳潜(ちんとくせん)という学者が『唐宋八大家文読本』という全集を編纂した。これが日本の明治の中江兆民によって広められた。明治から特に日本人に愛読された全集だ。
およそ300年に渡った唐の時代からは韓愈(かんゆ)と柳宗元の二人だけが選ばれている。この全集の内容が政治論や国家論などをテーマとしていたからでもある。
柳宗元の略歴・・左遷されたまま生涯を終える
西暦773年、唐の都・長安に生まれる。
西暦793年、21歳で進士科(科挙試験)に合格する。この年に父が死没したために3年の喪に服す。
西暦798年、26歳で博学宏詞科に合格し、集賢殿書院正字(国家的図書編纂)の職に就く。
西暦803年、31歳の時、監察御史(官吏の不正を取り締まる検察官)となる。既にこの頃には改革派の思想集団に属する。
西暦805年、33歳、1月改革派のクーデターが成功し、礼部員外郎(訴状を管理し裁定する官職)に抜擢される。(『永貞の革新事件』)。しかしその年の8月には旧勢力の巻き返しにあい、改革に失敗。11月に永州に流される。八人の仲間が遠方に司馬(しば)=名前だけの閑職=として流された為に八司馬事件とも言われる。だが、彼らがわずか半年の間に行なった数々の改革は目を見張るものがあった。
永州での10年間に柳宗元の才能が花開く。先駆的な思想、別格の文章能力で多くの論文、山水記などが生まれる。
西暦815年、43歳、再度柳州に流され、柳州勅使となる。
西暦819年、47歳、柳州にて多くの善政を施し、10月没する。

柳宗元の国内外の評価
♦文学者 ♦散文家 ♦古文家 ♦山水記作家 ♦自然詩人 ♦思想家 ♦法家 ♦無神論者 ♦唯物論者 ♦合理主義者
(2018年1月 山川出版『柳宗元 アジアのルソー』世界史リブレット 戸崎哲彦著 より引用)