
柳宗元の不朽の名作『永州八記』とは
『永州八記』は山水文学の❝さきがけ❞である。
北魏の酈道元(れきどうげん=469~527年)が自然の風景を遊覧した記録文章『水経注』を残している。主に黄河や長江周辺の水路をことごとく記録し、絵画的表現も交えながら、40巻にも及ぶ「地理書」を作り上げた。
柳宗元はこの『水経注』の影響を受けているらしい。罪人として僻地で暮らすようになった柳宗元は、未開の地の大自然に魅了されていった。
『永州八記』は「愚渓」と名付けた渓谷を中心として書かれているが、研究者によっては「永州九記』とする場合もある。以下その作品名である。
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「始得西山宴游記」 : 始めて西山を得て宴游するの記
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「鈷鉧潭記」 : 鈷鉧潭の記(こぼたんのき)
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「鈷鉧潭西小丘記」 : 鈷鉧潭西小丘の記
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「至小丘西小石潭記」: 小丘の西、小石潭に至るの記
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「袁家渇記」 : 袁家渇の記(えんかかつのき)
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「石渠記」 : 石渠の記(せききょのき)
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「石澗記」 : 石澗の記(せきかんのき) *澗の字は門の中が月
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「小石城山記」 : 小石城山の記(しょうせきじょうざんのき)
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「游黄渓記」 : 黄渓に游ぶの記(こうけいにあそぶのき)
《お断わり》
このサイトでの柳宗元の『永州八記』は、漢文を載せないことにした。あまりにも長くなるという事と、日本語訳で柳宗元の表現力を堪能してほしいからである。私が初めて柳宗元の『永州八記』に出会った時には宮崎駿の描画を連想してしまった。
よって、『唐宋八大家文読本』に書かれてある日本語訳よりも、かなり現代的な表現にした。その方が親しみ易く読めるのではないだろうか。(但し、柳宗元独特の魅力的な語句については捨てがたいものがあるので、所々にそれを収めることにする。)
始得西山宴游記【初めて西山を発見し宴游した時の記録】
私は罪人となってこの永州に住むことになってから、常に憂いと不安を抱えていた。そんな中、暇を見つけては、ゆるゆると歩いていき、ぶらぶらと遊んだ。日々仲間と高い山に登り、深い林に分け入り、曲がりくねった渓谷の奥深くまで極めた。奥深い所にある泉や奇妙な形の岩などを見つけては、どんなに遠くても行かない所はなかった。
到着すれば草を抜いて座り、壺を傾けて酒に酔った。酔うと互いに枕して寝る。心が満足すると、夢もまた趣きを同じくする。覚めれば起き、起きては帰る。
およそこの州の山で、特異な形態のものは全て私だけのものと思っていた。しかし、西山の特に怪しげであることは初めの時には知らなかったのだ。
地図:赤い印が現在の法華寺の位置
これは清の時代の地図で「高山寺」と書かれてある。
今年9月28日、法華寺の西亭に座って西山を眺めた時、初めてこの山は特異な山だ、と指さした。すぐに従者に命じて湘江を渡り、染渓に沿って進み、雑木や藪を斧で切り、茅を焼き払い、山の頂上ぎわで止めた。そこからは枝を引き寄せてよじ登ると、両足を投げ出しては気ままに楽しんだ。

数州の土地が(則凡數州之土壌) 、全て寝転ぶ私の眼下にある(皆在袵席之下) 。その高低の勢いは(其高下之勢) 、大きな谷間を作り深い池を作り(岈然洼然) 、アリ塚のように穴のように(若垤若穴) 、一尺一寸の中に千里の景色が集まり縮まり積み重なって(尺寸千里、攢蹙累積) 、逃げ隠れできる所などないように見える(莫得遯隠) 。森は青い色をめぐらし川は白い色をまとい(縈青繚白) 、外側は天空と溶け合い(外與天際) 、四方の眺望がみな一つになっている(四望如一) 。
こうして私は、この西山が突出していて、他の小塚のような類の山とは違うことを知った。眺めは悠々として清らかな大気とともにありその果てがない。心は洋々として造物者と共に遊び極まることがない。盃に酒を満たし、身も崩れるように酔い、日の入りさえにも気づかない。
深く青みがかった夕暮れ色が遠くから近づいてきて、もう何も見えなくなっても、なお帰りたいとは思わない。心が集中し身体が解きほぐされ、この世の万物と心の奥深くで一つになった。
こうしてこの遊覧の楽しさによって、まだ本当の遊覧は始まっていなかったことを知ったのである。遊覧はここにおいて初めてそう呼べるのである。故にこの文章を作って記録する。この年は元和4年である。
こうして柳宗元の永州八記が始まる。この時点ではまだ『愚渓』という言葉は見えず、『染渓』と呼んでいる。染渓に土地を買って住み始めるのはこの後の事だ。
次の ②―『鈷鉧潭記』つづく。
参考文献リスト
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『唐宋八大家文読本』二 星川清孝著 明治書院
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『柳宗元 永州山水游記考』 戸崎哲彦著 1996年 中央出版社
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『柳宗元研究』 松本肇著 2000年 創文社
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『韓愈と柳宗元』 小野四平著 1995年 汲古書院
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『枯淡詩人 柳宗元』 林田慎之介 昭和58年 集英社