お断わり:「かん」という字は、本文では門の中には月が入る。それが「正字」なのだが、私のパソコンではこの字が出てこない。「礀」も同じ意味で本文の文字に充てることもできるが、「澗」で補っておく。
場所:「石渠」の近くにあり、地図上では左の赤い印の箇所である。
意味:「澗」はいずれの「かん」の字も「谷あいに水が流れている様」のことを意味する。
『石澗記』【せきかんの記】
石渠のことは既に述べ尽くした。橋の西北から上がって、土山の北に下ると、そこにもまた住民が橋をかけていた。
その水は大きく、石渠の三倍もあった。石が底を渡って両岸に達している。長い床(とこ)のようでもあり、広い座敷のようでもあり、筵(ムシロ)を敷いたようでもあり、敷居で部屋の奥とを仕切ったようにも見える。水がその上に平らに広がり、流れは模様を織っている如く、その響きはまるで琴を弾くが如く。
私は衣を抱えて裸足で歩き、竹を折って古い木の葉を払い、腐った木を取り除いた。椅子を十八、九もここに並べることが出来そうだ。その下を絡み合うような流れ、底石やに触れて逆らう水音、全てはこの床下にある。カワセミの羽のような緑の樹々、龍のウロコのような石が、一様にその上を覆っていた。
古の人で、ここで楽しんだ人があったのだろうか。後に来る人で、私の足跡を追ってここで楽しむ人がいるだろうか。恐らく昔も今後もないであろう。
ここを発見したのは、石渠と同じ日である。袁家渇から来る人は、石渠を先に見て石澗を後に見、百家瀬の上から来る人は、石澗を先に見て石渠を後にする。澗の美を極めるものは、全て石城村の東南に出ている。その間に楽しむに足るものは数々ある。その上方には深山や奥深い林がますます険しくそびえ立ち、道が狭くて極めることができないのである。
この写真の砂地の所が「百家瀬」であり、中央が石渠への入り口になる。そこから500メートルほど手前に来た所に石澗の入口がある筈だ。私はそれを見つけることは出来なかった。
上の白黒の写真は『柳宗元 永州山水游記考』に載っているもの。何となく、面影が残っているように思える。
「永州八記」最後の作品へつづく。